山縣有朋記念館
山縣有朋記念館には、山縣有朋ゆかりの遺品や山縣文書など関係資料を収蔵展示する資料館です。
1999年開館。
記念館の建物は小田原の古稀庵にあった伊東忠太設計になる木造洋館が関東大震災で被災した時、これを移築したもので、現在は栃木県指定有形文化財に指定されています。
山縣農場もその一つで、山縣有朋が明治時代に、箒川を挟んで那須野が原に隣接する高原山山麓の栃木県矢板市に開いた、広さ天然林約150町歩、草山600余町歩あまりの山野の開拓農場です。
山縣有朋は、1869-1870年(明治2-3年)平地の殆どはすでに他の高官や旧藩主らによりおさえられていたためと思われます。
1869-1870年(明治2-3年)に欧米事情視察のため渡欧しました。
山縣有朋は、ドイツで貴族が田園に農場をかまえ、農業・林業経営に当たるという貴族農場を実際に見て、いたく感銘を受けて日本でも同じ事をやろうと考えたようです。
生前の山縣有朋については、巷間いろいろいわれておりますが、非常に上昇志向が強かった事は間違いないようで、一部では勲章フェチと陰口を叩くものもいたそうです。
出自が蔵元附中間(ちゅうげん:足軽より低い身分)相当コンプレックスを抱いていたようですね。
これは伊藤博文にも言える事でほとんど故郷の長州には帰らなかったようです。
当時の国民、政治家、皇室からはことごとく不人気であったが、昭和天皇は軍人・山県有朋を評価している。
大正11年、85歳没。