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旧青木 周藏那須別邸 明治政府を支えた優秀な外交官、政治家の終の家です。
場所は道の駅「明治の森・黒磯」の奥に隣接して建っております。
明治21年(1888年)建築
平成11年(1992)12月に国の重要文化財に指定された白亜の洋館です。
道の駅「明治の森・黒磯」 | 道の駅「明治の森・黒磯」 |
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旧青木家那須別邸の正面玄関です。
最も初期に造られたとされて両翼はその後付け足されたそうです。
明治政府で、駐独公使となってドイツに赴任、その後オーストリア・ハンガリー帝国公使を兼任しました。
滞独生活は留学生、公使として25年におよび、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかりました。
第1次山縣内閣・第1次松方内閣の外務大臣を務めました。
幕末に結ばれたイギリス。ドイツの不平等条約の改正に尽力し、対等条約にました。
山県有朋、松方正義ともに那須に広大な土地を所有しました。
農業開拓を行った青木周蔵氏の別邸で、床面積226坪、部屋の総数24室、設計はドイツの建築の松ヶ崎萬長(まつがさき つむなが)です。
公家の松ヶ崎萬長については謎が多く、真偽の程は私にはわかりませんが孝明天皇の御落胤という説もあります。
1877年(明治10年)にドイツ(当時はプロイセン)貴族の令嬢エリザベートと結婚しました。
日本人で初めてヨーロッパ貴族と結婚した人です。
ザルム家(Haus Salm)は現在でも存続する上級貴族です。
離婚してまで結婚したかったのがわかります。
ザルム家を調べてもらえば、どれだけ凄いかわかります、女性にはどう映るかわかりませんが、山口県の片田舎の女性と比べたら星のように見えたのでしょうね。
すごい逆玉の輿といったところでしょうか。
魚座の男と付き合っている女性は気をつけましょうね。(冗談です)
上の写真は溺愛しした娘My Favorite Daughter、ハナのウェディングドレス姿。(Hanna、1879–1953)
ヨーロッパ貴族アレクサンダー・フォン・ハッツフェルト伯爵へと嫁ぐ姿です。S
明治のロマンが屋敷一帯に溢れています。(この人だけですが)
青木周蔵は長門国小埴生(おはぶ)の村医者の息子として生まれました。
矢板町で、大農場を開いた山縣有朋、西那須町(現 那須塩原市)で農耕生活を送った乃木希典とともに萩出身です。
歴史の教科書に載るような大きな事はしてないようですが、縁の下の力持ち的な人だったのでしょう。

旧青木家那須別邸の入り口は板室街道沿いにあり、屋敷まで美しい杉並木が続いています。
閑静な所にあり、現在でも美しい森に囲まれています。
明治時代まで、東京から160Kmしかないのに、那須野ヶ原扇状地は水が無いため日本有数の未開拓荒野でした。
明治の初期から中期にかけて、維新の英雄や華族達のヨーロッパ型の大農場が沢山那須にできました。
薩長が指導して明治維新はなりましたが、なんとなく庶民の目からみると権力が殿様から資本家に移っただけで、巷間いわれてい司馬遼太郎的な史実がいかにファンタジーだというのもわかります。
下剋上の欲の皮の突っ張り合いです。
現在青木農場の面影を残すものは、青木別邸以外は少なくなりましたが、かつては東北自動車道から戸田との境にかけて、広大な面積を所有していました。
当時は1571ヘクタール(1千五百八十町歩)、東京ディズニーランドの30倍の面積を擁していました。
旧青木家那須別邸はほぼ農場の中心に建てられ、ドイツ生活が長かった青木周蔵がドイツ式の森林牧場経営を取り入れ、鹿などの放牧を実践しました。
青木周蔵が目指した森林経営はドイツのユンカーであります。
これはニクラス・ザルム・ライファーシャィイトをグーグルで調べますと、ザルム家(Haus Salm)が分かると思います。
まさにザルム家こそがユンカーです。
ユンカーとは 以下Wikipediaより引用
エルベ川以東に領地を持つ中世の騎士たちが直接に農地経営に乗り出すようになったことに始まる。彼らは領地内に直営農地「騎士領」を所有して自身もそこで暮らすというグーツヘルシャフトGutsherrschaftと呼ばれる領地経営を行うようになった。また農民に賦役を課し、さらに領主裁判権・警察権を行使することで農民を強力に支配した。領主が地代取得者にすぎず、直接に農地経営しないグルントヘルシャフトと呼ばれる領地経営を行い、領主裁判権も持たない西ドイツの貴族とは対象的な存在であり、農地が豊かな東部ドイツ特有の貴族であった。
これは那須野ヶ原の華族農場でも、千本松牧場を開場した松方正義(薩摩)に次ぐ大きさです。
松方はアメリカ式の しかし那須野ヶ原の華族牧場の特徴としてコロニアル様式、ドイツ形式あり、どれも個性的な別邸ですが共通しているのはどれも小規模な邸宅ということです。
現在の青木地区の名前は、青木農場に由来しています。
交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』は、アントニン・ドヴォルザークが1893年に作曲した、4つの楽章からなる最後の交響曲の第2楽章(家路 である。
青木低は明治21年(1888年)建築です、ドヴォルザークの新世界は1983年の作曲ですから日本では明治26年です、青木周蔵も新世界を夢みていたのかもしれませんね。

収蔵品として、明治維新の英雄であった桂小五郎(木戸孝允)などが映っている写真や、榎本武揚との直筆の手紙なども見ることができます。
その他貴重な明治時代のものが展示されています。
当時の幕末のパワーエリートたる華族の並はずれた、浮世離れした暮らしが垣間みられます。
薩長を主体とした官軍のぶんどり合戦といっても過言でない那須野ヶ原の大農場経営もしこりはないようです。
青木別邸の裏には、明治に植えられた木が巨木となって静かに立っています。
明治の時代こんな馬車に乗ってこの杉並木を走っていたのでしょうね。

明治24年日本を訪問中のロシア皇帝ニコライ2世(当時は皇太子)が、大津で警察官により斬りつけられるという暗殺未遂事件がおきました。
当時外務大臣であった青木周蔵は、内務大臣の西郷従道とともに大津事件の責任を取り辞任。
心配した榎本威陽との自筆の書簡が残っています。
比較的仲が良かったのが文面から伺えます。
(写真 右 青木周蔵氏)
1894年(明治27年)8月29日 対英条約改正の功により勲一等旭日大綬章を受章したたきの写真です。
大綬を右肩から左脇に垂れ、副章(勲二等旭日重光章の正章と同じ)を左胸に佩用する。
青木農場の鹿の角だと思われます。
那須の郷土史家の第一人者といっていい磯忍氏の青木周蔵と青木周蔵那須別邸(岡田義治共著 随想舎)によればドイツ皇帝から明治天皇に献上された10頭から、在来種などと交雑し1500頭にも及ぶ時があったそうです。
当時オオカミがいたかどうかはわかりませんが(那須どうぶつ王国にはいます 外国の)、現在では牧場などつくらなくても、やたらと増えすぎて現在では害獣となってしまいました。
都会の人は野生の鹿など見たことない人がほとんどでしょうが、大きい個体ですと恐怖を感じると思います。

何より特筆すべきは子孫が半端ない貴族です。
青木周蔵の子孫は数えて5代目のオーストリアの伯爵家当主「ニクラス・ザルム・ライファーシャィイト」へ引き継がれています。
オーストリアに広大な森林を所有する名家でシュタイレッグ城(Schloss Steyregg)の管理もしている。。
オーバーエスターライヒ州にあり、すぐそばをドナウ川が流れています。
浮世離れ感が半端ありません。
(周蔵の一人娘ハナ(ドイツ貴族と結婚)ー 一人娘ヒサ ー 第四子ナタリ ー 長男ニクラス)
「青木ハナ」さんの写真を私の那須高原アルバムに載せてあります。
写真は青木周蔵が寄付した青木小学校の創立100周年記念日において来日、青木周蔵と縁の深い元ペール大使の青木盛久氏と青木別邸で撮ったものです。
Steyregg aus der Vogelperspektive ドローンから見たシュタイレッグ城。
(写真 下)ハンナガーデン (日本名は花子)
青木周蔵とエリザベート・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhadeの子
最も初期に造られたとされて両翼はその後付け足されたそうです。

明治政府で、駐独公使となってドイツに赴任、その後オーストリア・ハンガリー帝国公使を兼任しました。
滞独生活は留学生、公使として25年におよび、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかりました。
第1次山縣内閣・第1次松方内閣の外務大臣を務めました。
幕末に結ばれたイギリス。ドイツの不平等条約の改正に尽力し、対等条約にました。
山県有朋、松方正義ともに那須に広大な土地を所有しました。
農業開拓を行った青木周蔵氏の別邸で、床面積226坪、部屋の総数24室、設計はドイツの建築の松ヶ崎萬長(まつがさき つむなが)です。
公家の松ヶ崎萬長については謎が多く、真偽の程は私にはわかりませんが孝明天皇の御落胤という説もあります。
1877年(明治10年)にドイツ(当時はプロイセン)貴族の令嬢エリザベートと結婚しました。
日本人で初めてヨーロッパ貴族と結婚した人です。
ザルム家(Haus Salm)は現在でも存続する上級貴族です。
離婚してまで結婚したかったのがわかります。
ザルム家を調べてもらえば、どれだけ凄いかわかります、女性にはどう映るかわかりませんが、山口県の片田舎の女性と比べたら星のように見えたのでしょうね。
すごい逆玉の輿といったところでしょうか。
魚座の男と付き合っている女性は気をつけましょうね。(冗談です)
上の写真は溺愛しした娘My Favorite Daughter、ハナのウェディングドレス姿。(Hanna、1879–1953)
ヨーロッパ貴族アレクサンダー・フォン・ハッツフェルト伯爵へと嫁ぐ姿です。S
明治のロマンが屋敷一帯に溢れています。(この人だけですが)
青木周蔵は長門国小埴生(おはぶ)の村医者の息子として生まれました。
矢板町で、大農場を開いた山縣有朋、西那須町(現 那須塩原市)で農耕生活を送った乃木希典とともに萩出身です。
歴史の教科書に載るような大きな事はしてないようですが、縁の下の力持ち的な人だったのでしょう。

旧青木家那須別邸の入り口は板室街道沿いにあり、屋敷まで美しい杉並木が続いています。
閑静な所にあり、現在でも美しい森に囲まれています。
明治時代まで、東京から160Kmしかないのに、那須野ヶ原扇状地は水が無いため日本有数の未開拓荒野でした。
明治の初期から中期にかけて、維新の英雄や華族達のヨーロッパ型の大農場が沢山那須にできました。
薩長が指導して明治維新はなりましたが、なんとなく庶民の目からみると権力が殿様から資本家に移っただけで、巷間いわれてい司馬遼太郎的な史実がいかにファンタジーだというのもわかります。
下剋上の欲の皮の突っ張り合いです。
現在青木農場の面影を残すものは、青木別邸以外は少なくなりましたが、かつては東北自動車道から戸田との境にかけて、広大な面積を所有していました。
当時は1571ヘクタール(1千五百八十町歩)、東京ディズニーランドの30倍の面積を擁していました。
旧青木家那須別邸はほぼ農場の中心に建てられ、ドイツ生活が長かった青木周蔵がドイツ式の森林牧場経営を取り入れ、鹿などの放牧を実践しました。
青木周蔵が目指した森林経営はドイツのユンカーであります。
これはニクラス・ザルム・ライファーシャィイトをグーグルで調べますと、ザルム家(Haus Salm)が分かると思います。
まさにザルム家こそがユンカーです。
ユンカーとは 以下Wikipediaより引用
エルベ川以東に領地を持つ中世の騎士たちが直接に農地経営に乗り出すようになったことに始まる。彼らは領地内に直営農地「騎士領」を所有して自身もそこで暮らすというグーツヘルシャフトGutsherrschaftと呼ばれる領地経営を行うようになった。また農民に賦役を課し、さらに領主裁判権・警察権を行使することで農民を強力に支配した。領主が地代取得者にすぎず、直接に農地経営しないグルントヘルシャフトと呼ばれる領地経営を行い、領主裁判権も持たない西ドイツの貴族とは対象的な存在であり、農地が豊かな東部ドイツ特有の貴族であった。
これは那須野ヶ原の華族農場でも、千本松牧場を開場した松方正義(薩摩)に次ぐ大きさです。
松方はアメリカ式の しかし那須野ヶ原の華族牧場の特徴としてコロニアル様式、ドイツ形式あり、どれも個性的な別邸ですが共通しているのはどれも小規模な邸宅ということです。
現在の青木地区の名前は、青木農場に由来しています。
交響曲第9番 ホ短調 作品95『新世界より』は、アントニン・ドヴォルザークが1893年に作曲した、4つの楽章からなる最後の交響曲の第2楽章(家路 である。
青木低は明治21年(1888年)建築です、ドヴォルザークの新世界は1983年の作曲ですから日本では明治26年です、青木周蔵も新世界を夢みていたのかもしれませんね。

留学生・外交官(ドイツ公使)として滞独生活は25年に及び、ドイツの政治体制、文化の導入を推進しました。
収蔵品として、明治維新の英雄であった桂小五郎(木戸孝允)などが映っている写真や、榎本武揚との直筆の手紙なども見ることができます。
その他貴重な明治時代のものが展示されています。
当時の幕末のパワーエリートたる華族の並はずれた、浮世離れした暮らしが垣間みられます。
薩長を主体とした官軍のぶんどり合戦といっても過言でない那須野ヶ原の大農場経営もしこりはないようです。
青木別邸の裏には、明治に植えられた木が巨木となって静かに立っています。
明治の時代こんな馬車に乗ってこの杉並木を走っていたのでしょうね。


明治24年日本を訪問中のロシア皇帝ニコライ2世(当時は皇太子)が、大津で警察官により斬りつけられるという暗殺未遂事件がおきました。
当時外務大臣であった青木周蔵は、内務大臣の西郷従道とともに大津事件の責任を取り辞任。
心配した榎本威陽との自筆の書簡が残っています。
比較的仲が良かったのが文面から伺えます。
(写真 右 青木周蔵氏)
1894年(明治27年)8月29日 対英条約改正の功により勲一等旭日大綬章を受章したたきの写真です。
大綬を右肩から左脇に垂れ、副章(勲二等旭日重光章の正章と同じ)を左胸に佩用する。
青木農場の鹿の角だと思われます。
那須の郷土史家の第一人者といっていい磯忍氏の青木周蔵と青木周蔵那須別邸(岡田義治共著 随想舎)によればドイツ皇帝から明治天皇に献上された10頭から、在来種などと交雑し1500頭にも及ぶ時があったそうです。
当時オオカミがいたかどうかはわかりませんが(那須どうぶつ王国にはいます 外国の)、現在では牧場などつくらなくても、やたらと増えすぎて現在では害獣となってしまいました。
都会の人は野生の鹿など見たことない人がほとんどでしょうが、大きい個体ですと恐怖を感じると思います。

何より特筆すべきは子孫が半端ない貴族です。
青木周蔵の子孫は数えて5代目のオーストリアの伯爵家当主「ニクラス・ザルム・ライファーシャィイト」へ引き継がれています。
オーストリアに広大な森林を所有する名家でシュタイレッグ城(Schloss Steyregg)の管理もしている。。
オーバーエスターライヒ州にあり、すぐそばをドナウ川が流れています。
浮世離れ感が半端ありません。
(周蔵の一人娘ハナ(ドイツ貴族と結婚)ー 一人娘ヒサ ー 第四子ナタリ ー 長男ニクラス)
「青木ハナ」さんの写真を私の那須高原アルバムに載せてあります。
写真は青木周蔵が寄付した青木小学校の創立100周年記念日において来日、青木周蔵と縁の深い元ペール大使の青木盛久氏と青木別邸で撮ったものです。
Steyregg aus der Vogelperspektive ドローンから見たシュタイレッグ城。
(写真 下)ハンナガーデン (日本名は花子)
青木周蔵とエリザベート・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhadeの子