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参考ページ | 6月7日 314年前松尾芭蕉が遊行柳を訪れた同じ日、同じ頃の時間に行ってみました |
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おくのほそ道 田の畦に立つ芦野 遊行柳
「田一枚植えて立ち去る柳かな」 松尾芭蕉松尾芭蕉 寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)
享年50
平成27年3月10日に遊行柳が国指定「おくのほそ道の風景地」の名勝に指定されました。
西行法師、松尾芭蕉、与謝野蕪村と3人の歌人が訪れた有名な歌枕(和歌の題材とされた日本の名所旧跡)の地です。
現在でも美しい田圃の中に遊行柳は静かに立っています。
多分西行が訪れた時代と景色的にはほとんど変わってないと思います。
この柳の傍らに芭蕉、西行、蕪村の歌碑・句碑が建てられており、今なお訪れる人々が多い所です。
ボンクラの私などには特に風光明媚な場所でもありませんので、たいした景色には思えませんが、西行法師を尊敬し西行のように生きたいと願った芭蕉にとっては感動の光景だったのでしょうね。
松尾芭蕉は「おくのほそ道」の5年後に没しましたから、生涯最後の大紀行だったのでしょう。
遊行柳は一遍上人に始まる時宗との関係が深いそうで、遊行柳の遊行とは時宗の上人のことだそうです。( 時宗19代尊酷(そんこく)上人 )
那須には専称寺を初め時宗念仏の浄土宗の寺が多く、伊王野の専称寺には国の重要文化財の指定を受けた「阿弥陀如来立像」が安置されています。
仏教の開祖である釈迦(しゃか)も遊行の人でした。
不易流行
もちろん平安や、元禄時代の柳が残っているはずもなく、何代か植え替えられたのであろうと思います。2本の柳が植えられていて、入り口正面から見ると左側が遊行柳で右側が朽木柳です。
この写真は2013年6月6日に撮影したものです。
関東地方は梅雨入りしていましたが、今の所たいした雨は降っていません
芭蕉がこの地を訪れたのは、元禄2年(1689年)の陽暦6月7日ですから、明日である。
那須の殺生石と温泉神社を参拝したのち午前8時頃那須湯本を出発して、芦野の遊行柳に立ち寄っています。
この日は晴れでしたが、芭蕉が訪れた当日はどんよりした曇だったのではないかと思います。
松尾芭蕉は栃木県を20日間、250Kmを旅しております。
那須に来る前「おくのほそ道」の道中黒羽に最長の13泊14日の長逗留をしましたが、鹿子桃雪(黒羽藩 城代家老 浄法寺図書高勝)兄弟などの手厚い「おもてなし」を受けたこともありますが、長雨が祟ったのが一番の要因だと思います。
松尾芭蕉は岩出山から一関までの約58㎞を1日で走破したり、かなり健脚であったとおもわれますから(江戸時代の平均的な旅人の歩く距離は10里(約40Km)といわれています。)
この季節、晴れれば那須連山が一年のうちでも紅葉時期と並んで、一番美しく見えるはずなのですが、那須山の記述は「おくのほそ道」には一切ありません。
明日はいよいよ6月7日ですので、314年前。芭蕉がこの地を訪れたであろう時間に来てみます。
人は生まれながらに旅をしているようなものだと言った松尾芭蕉は、「田一枚植えて立ち去る柳かな」という一句を「おくのほそ道」の中で残しております。
現在もこの辺は稲作地帯で、美田が多く美味しい米がとれることで定評がある所です。
芭蕉が私淑する西行の感慨に浸るうちに、すでに一枚田を植え終わってしまったのだろう。
なんかそのままですが、多分もっと深い意味があるんでしょうね。
入り口正面からみた写真です。
松尾芭蕉の句碑は、左側、遊行柳の下にあります。
辺り一帯は緑地保全地域になっており、まだまだ美しい環境と景観が残っています。
西行や松尾芭蕉が見た光景とほとんど変わらない景色が残っていると思います。
まさに不易流行そのものです。
むずかしい文学的な解釈は私にはわりませんが、歌人達は何かをこの農村風景の中に感じたのでしょうね。
感性するどい芸術家が3人も訪れた歌枕の地である。
私のようなボンクラが、わかりもしない解説をするよりも、学もあり頭のよい人達が沢山この場所の記述をしていますのでぜひそちらを参考にしてください。
西行法師と蕪村
この柳はシダレヤナギという種類です。今では一般的な木ですが、柳は奈良時代中国より伝来した植物で、平安時代にどういう経路を辿って芦野の地に植えられたかは、私などの考えの及ぶ処ではありませんが、相当に珍しく目に止まったものと思います。
奈良時代に整備された、奈良の都と陸奥を結ぶ東山道がこの近くを通っていますので関係しているかもしれません。
空海が中国を訪れていた時代には、「折柳相送」という言葉があり、長安では旅立つ人に柳の枝を折って手渡し送る習慣があったそうです。
そんな事も西行は知っていたのかもしれません。
後に西行は弘法大師空海の遺跡巡礼もしています。
現在この柳の立っている横を通っている国道294号線はかつての奥州街道です。
江戸時代以前は那珂川沿いを北上し白河の関に抜ける東山道が主流でした。
江戸時代に近世「五街道」の一つ奥州街道が整備されましたが、平安時代末期の西行がどうしてこの地を通ったのかはわかりません。
西行ゆかりの遊行柳 西行は今を遡る800年前にここを訪れています。
遊行柳の西行歌碑 道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ 西行法師(左)
遊行柳の蕪村句碑 (右) 柳散 清水涸 石処々 (やなぎちりしみずかれいしところどころ)
遊行柳を訪れてみると、その葉はすでに散り、西行が「清水流るる」と詠んだ清水もかれはてて、川床にはところどころ石が姿を現しているという事です。
蕪村は挿絵がついた「おくの細道」図巻を残しています。
与謝野蕪村が訪れたのは松尾芭蕉の約55年後になります。
芭蕉は、西行ゆかりの遊行柳に心を寄せ立ち寄りました。
西行(本名は佐藤義清(のりきよ))は芭蕉の時代を下ること500年前の歌人で、平安末期の1140年頃初めて奥州を旅したそうです。
ドイツ人 女性が那須に来て、この遊行柳の謂れを知り、とても感動したというコメントがドイツのブログにありました。
西行は桜の花を大変愛したそうです。
西行が愛した桜の花の下で、何か侘び寂びみたいなものをドイツ人も感じたのでしょうかね。
西行は、祖先が藤原鎌足という大変裕福でハイソな武士の家に生まれながらも、出家して坊さんになり、そういうものに執着しないで生涯を漂白した歌人です。
日々旅にして旅を栖とした歌人です。
(鳥羽上皇に北面の武士として仕えるが、23才で出家し西行を名乗る。)
さあ、白河の関はもうすぐです、どんな気持ちだったのでしょうかね?。
芭蕉も白河の関が目前に迫るなか、期待と不安でいろいろ考えながら、きっとこの空を眺めながら歩いたのでしょう。
歌枕の地 白河の関
「都をば霞(かすみ)とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 能因
今では白河の関など車でいけば、ものの10分か15分でついてしまいます。
白河関は、奥州三古関に数えられ奈良時代から平安時代頃機能していたようです。
古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では都人のあこがれの地となり、歌枕(和歌の名称や和歌の題材とされた日本の名所旧跡)の地として文学の世界で能因、西行、松尾芭蕉など数多くの古歌に読まれた場所だそうです。
現在も風流人の想いを描く地として人気があります。
松尾芭蕉は残念ながら白河の古関跡は場所が特定できなかったようです。
白河の古関跡を特定したのは、松平定信公の白河藩主在任中ですので1800年前後だと思われますから、芭蕉の時代から百年ぐらい後になります。
白河の関跡です。