BeNasu那須高原の歩き方
BeNasu 那須高原の歩き方

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那須から霊峰八溝山にオートバイでい、いくぅ〜の巻

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八溝山とは標高1,022mの茨城、栃木、福島にまたがる広大な八溝山地の最高峰の山であり、茨城県の最高峰の山でもあります。

那須茶臼岳の頂上から僅か35Kmぐらいしかありませんから那須から良く見える山なのですが、なかなか八溝山に行った事のある人は地元に案外少ないのです。

さて何をしに行くのか?というとここには日本百名水に選ばれた八溝川湧水群があります。 この山は久慈川の源流であり名水百選に選ばれた八溝川湧水群があります。
ここに行くには雲巌寺の手前から栃木県道321号南方須佐木線を行くと、途中茨城県道・栃木県道28号大子那須線にぶつかりますので、そのまま山超えすれば八溝山はすぐなのですがこれはつまらない。
ここはわざわざと雲巌寺から茨城県のお茶の名産地「佐貫」を通り今だに茅葺屋根の家々が残る日本の風景を眺めながらの八溝山までのツーリングです。
八溝川湧水群は天下の副将軍「見た肛門」もとい「水戸黄門こと水戸光圀公」が命名した(金性水、鉄水、龍毛水、白毛水、銀性水)がありますので、尚仁沢湧水に続いておいしい水を飲みに行く事にしました。

八溝山頂上より那須連山

これは2015年10月の下旬に作成したものです。

10月に入り暖かい日が多く天気も良いので秋風に吹かれに八溝山にちょっくらオートバイで行ってみました。

出発地点は伊王野の道の駅「東山道伊王野」が分かり易いと思います。

東山道伊王野の横の(雲巌寺方面の看板があります)栃木県道27号那須黒羽茂木線(とちぎけんどう27ごう なすくろばねもてぎせん)を黒羽に向かって行きますと、1〜2Kmでこのサイトでも特集しました那須の幻のお米が穫れる両郷の有機無農薬米の田んぼや大塚果樹園の前を通ります。

少し行きますと両郷の小さな集落を抜けて両郷という交差点を左折します。(両郷中学校があります)
これは地元人が使う近道です。
とにかく「雲岩寺」を目指します。(簡単です)

雲巌寺 宿 雲巌寺 宿

非常に趣のあるというか寂れたというか田舎集落を駆け抜けてきますと、雲巌寺の宿にでますから(嘗て雲巌寺に参拝した人達が泊まったであろう宿屋などがまだ残っています。)
武茂川を渡ればすぐ「雲岩寺」です。

雲巌寺

悲劇のヒーローとしての義経

東山道 義経街道をゆく

絵師: 歌川国芳「英勇一百伝」 「伊予守源義経」
年月日:1851 東京都立図書館
平家を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。もはや二人の関係は修復不可能になる。
藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に 病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出 羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を 図っている。 しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の 衣川館に襲った。最後まで支えたのは、弁慶や元山賊の伊勢三郎義盛らわずかに10人。義経の郎党たちは防戦し最期の抵抗をしたが、ことごとく討たれた。弁 慶は無数の矢が刺さり仁王立ちのまま絶命していており、馬にぶつかって倒れた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻 の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。

関東ふれあいの道

東山道 義経街道をゆく

東山道 義経街道をゆく

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