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東京オリンピックと円谷幸吉選手
精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 「人間の土地」 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」終戦の玉音放送の陛下のお言葉です。
そして、そのどん底から19年で日本は立ち上がり、歩きはじめた大きな第一歩が東京オリンピックだと思います。
一等国の仲間入りを果たす、東京オリンピックは国民全員の願いでした。
世界ではイギリス出身の4人組のロックバンドがこれから世界中を席巻していくことになります。
日本も世界も大きく変わりつつあった時代です。
昭和39年10月10日(1964年)、第18回のオリンピックが、アジアで初めて東京で開催されました。
当時私は7歳で小学校1年生でした。
オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある。
近代オリンピックの父と呼ばれる、ピエール・ド・クーベルタンの言葉が流行ったのを憶えています。
負けた時の常套句でした。
しかし大会中に、その言葉どうりの出来事が起こりました。
セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダが、男子10000メートル競走で、3周遅れの最下位となっても棄権せず完走しました。
最初は観客も笑っていましたが、そのうち諦めずに真摯に走る姿に、それは感動の拍手に変わり、参加することに意義があるという言葉が本当だということが子供心にも刻まれました。
重量上げで三宅選手が金メダルを取り、柔道の無差別級で、神永がオランダのヘーシンクに袈裟固めで破れ、体操のチャスラフスカの優美な演技に見とれていて、親に色気ずいてるんじゃないとげんこつを喰らいました。
そしていよいよ10月21日、東京オリンピックの最終日を飾るマラソンの日がきました。
日本人の大方は前回のローマオリンピックを裸足で走り、金メダルを獲得したエチオピアのアベベに集中していました。
前代未聞の2連覇がかかっていましたからね。 アベベが天才型だとしたら、円谷は決して天才肌の選手ではありません。
ここには円谷選手の、高校時代から自衛隊時代のものも沢山展示されています。
それらを見ていますと、とにかく走るのが好きだったのが陸上選手になった一番の理由なのがよくわかりますが、とても1ページでじゃ無理ですので、東京オリンピックとそれ以降のものについて制作しました。
(写真 左)スタート直後の様子です。
円谷選手の姿を確認することはできません。
(写真 右)甲州街道の立川市に設けられた折り返し地点です、円谷選手は第5位で折り返します、アベベに遅れる事600mです。
円谷選手はもともとマラソンランナーではありませんでした。
驚く事にフルマラソンは東京オリンピックの年に始めて、オリンピックまでたった3回しか正式大会の経験がなかったそうです。
持病の腰痛を抱えながら苦しそうです。
振り向かず、真っすぐに駆け抜けた円谷
円谷選手は自己哲学、忍耐と男たるもの後ろを振り返るなという信念を最後まで貫き通す。レースはは予想通りハイペースで行われました。
トップ集団が脱落していく中で、日本選手のペースメーカーの役割分担を担っていた円谷選手は、30キロ付近で腰痛に見舞われるますが、後半素晴しい追い上げを見せます。
故郷の須賀川からも大応援団が来ています。
そして円谷選手が第2位で国立競技場に入ってきた瞬間です。
日本の円谷が来た!!日本の円谷が来ました!!円谷第二位!第二位!!
スタンドは割れる様な大声援です。
どん底だった日本が、日の丸が今、世界の第2位を走っています。
が、すぐうしろにヒートリーが迫っています。
「円谷がんばれ」「後ろだ危ない」最期の力を小さな163cmの体から振り絞ります。
そして人間円谷幸吉の本然が出るのはこの瞬間だ!
円谷選手は振り向きません。
円谷選手はただただ真っ直ぐ前を見て最後まで全力で走り通します。
国立競技場は絶叫の嵐です。
死力を尽くした円谷選手はグランドに倒れこみ、半ば失神状態だったそうです。
ゴール前で惜しくもヒートリーに抜かれますが、自身の美学を最後まで貫き通し、ひたすら前を見て走る姿は本当に美しい思い出です。
トラックでのかけひきができなっかたと非難する人達もいたようですが、重い日本の重責を背負いながら必死で円谷選手はアベベとヒートリーと戦いました。
日本陸上チームの監督は円谷選手の走りに涙が止まらなかったそうです。
ひたすらに、誠実に死力を尽くした人間の顔です。
円谷選手の悲しい死
昭和43年(1968年)の、年明け間もない1月9日に、東京練馬区の大泉にあった自衛隊体育学校の自室で円谷幸吉さんは自殺します。
享年27歳
円谷選手の自殺には巷間いろんな事がいわれています。
このメモリアルホールにも自殺の理由が書いてありました。
しかし、本当の事は円谷さん本人にしか分からないでしょう。
ただ一つ私が感じたのは人間円谷幸吉としての責任感と言うことです。
円谷選手は家族あての遺書と、自衛隊の上官にあてた2通の遺書を残しています。
本来なら公開されるべきものではないのでしょうが、心ない人達から円谷選手の自殺が非難され、家族も断腸の思いで公開した遺書だと思います。
遺書の全文(原文ママ)
父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
川端康成の一草一花より 円谷選手は暮れの三十日から正月の二日まで古里の福島へ帰省していたそうで、母やきやうだいは、正月のことでもあるし、円谷選手にいろいろと國のものを食べさせたとみえる。 「おいしゆうございました。」といふものの多くは、古里の食べものである。みずから命を断つて、この世に訣別するとき、それをいちいち思ひだして礼をのべた。また十七人もの姪か甥かに、一人一人その名を呼べかけ書きならべて、『立派な人になつて下さい。』のひとことを別離とした。 そして、自殺にいたる苦労と呵責については、ただ「幸吉はもうすつかり疲れきつて走れません。何卒お許し下さい。」と書き、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」との訴へで遺書を結んだ。この簡単平易な文章に、あるひは萬感をこめた遺書のなかでは、相手ごと食べのもごとに繰りかへされる『おいしゆうございました。』といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きている。そして、遺書全文の韻律をなしている。美して、まことで、かなしいひびきだ。と語り「千万言も尽くせぬ哀切」と評した。
当時はノイローゼによる自殺とされていた事について、三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』で、これらの無責任な発言に対し「(円谷の自殺は)傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺……この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と強い調子で産経新聞紙上で批判した。
その他にも沢山の作家たちに影響を与えました。
円谷幸吉さんの自筆による「忍耐」の文字。
人間の信義とは?
出身地の須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されています。両親以外、誰よりも円谷選手を理解している君原選手も毎年参加しているそうです。 君原健二選手は引退まで出場した35回のレースすべてに完走している。
メキシコオリンピックで低酸素でふらふらになりながらも2位で競技場に入る。
競技場へ入った後ゴール直前で後ろを振り向き、3位だったニュージーランドのマイケル・ライアンが迫っていたのに気づいて、わずか14秒の差で逃げ切った。
ふだんは「バランスが崩れ、スピードが鈍る」という理由で、レース中に後ろを見ることはほとんどなかったが、このときの行動について君原は「円谷の、陰の声が振り返らせたのかもしれない」と思っているという。