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- 那須高原とは
那須高原は栃木県日光国立公園内にあります。
日光国立公園は、1934年(昭和9年)12月4日に誕生した、我が国最初の国立公園の一つです。
那須高原は標高1,917メートルの那須岳を中心とした高原リゾートです
この那須連山は2000mに満たない山々ですが、その美しい稜線には定評があります。
夏にはゴルフやアウトドアアクティビティを、冬にはスキーやスノーボードを楽しめます。
かつては湯治場として発展し、現在では那須高原リゾートとして有名であり、リゾート内には複数のスパや温泉があり、リフレッシュすることができます。
リゾート内には、レストランやショッピング施設があり、食事やショッピングを楽しめます。
リゾート内には、ホテルやペンション、オートキャンプ場などの施設が充実しており、快適な滞在を楽しむことができます。
また御用邸としては最大の那須御用邸があることでも有名です。
日本には著名な扇状地がいくつかあり那須野ヶ原扇状地の他、岩手県胆沢扇状地や長野県の安曇野などもよく知られていますが、那須野ヶ原扇状地は他の扇状地に比べ大変規模が大きく、面積は扇状地としては日本一でおおよそ4万ヘクタールに及び、標高は120mから580mまでその標高差は460mに及びます。
扇状地とは 英語でAlluvial fanといいますが、河川が山地から平野や盆地に移る所などに見られ、土砂などが山側を頂点として扇状に堆積した地形のことで、扇子の形と似ていることからこの名があります。
観光も有名ですが、やはり地域をささえるのは農業です。
那須地方の農業は、主に牛畜産業や果樹栽培が盛んです。
牧草地に配された牛たちは、地元の特産の「那須牛」として知られています。
また、リンゴや梨、イチゴなどの果樹も栽培されており、地元の産地直売所などで購入することができます。
このように、那須地方は農業が盛んな地域であり、地元のコミュニティーを支えています。
日光国立公園の那須岳の南山麓に広がる、なだらかな裾野部分の気候は、高原ならではの夏季でも涼しく爽やかな気候です。
大正15年にできました天皇や皇族の別荘である那須御用邸に代表されるように、温泉のある避暑地として、その後一般人にも人気がでて温泉、避暑、観光リゾート地として発展してきました。
右側の写真の、稜線付近が広大な那須御用邸になります。
那須山麓に広がる平坦地は、四季の彩り豊な自然と山々が一望できる高原リゾートとして、歴史の日光とともに栃木県を代表するリゾート地になりました。
日本百名山の那須岳は、皇太子と皇太子妃雅子様が登山をされてから知名度も一段とあがり、大変人気があります。
ダイナミックな山の風景が楽しめる、日本百名山の那須岳や那須連山への登山は、熟年層を中心に幅広い世代に広がりを見せているようです。那須御用邸敷地の約半分の560ヘクタールの、豊かで多様な動植物が見られる那須御用邸用地の一部を、国民が自然に直接ふれあえる場とするため、宮内庁から環境省に所管換することとなったことから、那須平成の森として楽しめるようになりました
那須高原の中腹に位置する、手つかずの美しいコナラやミズナラの広大な自然森である、那須平成の森のトレッキングコースは、雄大で美しい山を愛でながら歩くネイチャー ウォッチングやハイキングなど、アウトドアを体験する旅としてとても人気があります。
樹齢300年を超える敬宮愛子内親王(としのみや あいこないしんのう)のお印として有名なゴヨウツツジは、中ノ大倉尾根に国内最大の大群生地として、約6haにおよそ3万株が自生しています。
また、環境省選定かおり100選に選ばれた那須八幡のつつじ群落は、13ヘクタールの広大な敷地に約20万本のヤマツツジ、レンゲツツジ等が咲き誇る、展望も素晴らしい景勝地です。
旅の目的によって何度訪れても、新しい発見があるオールシーズンリゾートとしての那須高原。
那須高原には豊富なレジャースポットが揃っています。
高原の牧場、遊園地、サファリパークをはじめとする動物をテーマとした施設、スキー場、キャンプ場、テニスコート、ゴルフ場などの観光、スポーツ施設がとても充実しているのがとっても魅力です。
那須の歴史
古代の那須の歴史については郷土史家がいくつか専門的に研究している書籍もあり、簡単には説明できませんから、機会がありましたら是非それらを参考にしていただきたいと思います。ここで簡単ではありますが、平成元年に那須町の七曲りから4万5千年前の地層下部から10点に及ぶ石器が発見されましたから、那須山麓において前期旧石器時代から人間の営みが行われていたのではないかと推測いたします。
ここでは歴史的に大雑把ではありますが、特筆する事柄について簡単に説明していきたいと思います。
まず白河関と那須が境になっていますように、那須地域は常に陸奥の国と東国の最北端に位置してきました。
これは有事の際は最前線になることを意味していました。
「吾妻鏡」によりますと文治5年(1189年)7月19日奥州平泉の藤原泰衡(やすひら)を討伐するため源頼朝は鎌倉を進発し、途上那須町伊王野において馬揃えをしたことが記されております。
白河関は、奥州三古関に数えられ奈良時代から平安時代頃機能していたようです。
古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では都人のあこがれの地となり、歌枕(和歌の名称や和歌の題材とされた日本の名所旧跡)の地として文学の世界で能因、西行、松尾芭蕉など数多くの古歌に読まれた場所です。