BeNasu那須高原の歩き方
BeNasu 那須高原の歩き方

gif

遊行柳に戻る。

芦野 遊行柳 芦野 遊行柳

松尾芭蕉が見た空

gifgif

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす
古人も多く旅に死せるあり
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳


海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
3月27日 明け方、採荼庵(さいとあん)より舟に乗って出立し、千住で船を下りて詠む。
矢立の初め
行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪
写真は与謝野蕪村の挿絵が付いたおくのほそ道です。
言わずと知れた俳聖・松尾芭蕉が残した不滅の名作です。

松尾芭蕉は元禄二年(1689)陽暦で6月7日に那須の温泉神社と殺生石を見てから、ここ芦野の遊行柳を314年前の今日訪れています。

黒羽と那須での芭蕉の宿泊日及び宿泊地

黒羽 四月四日 浄法寺桃雪方
同 四月五日
同 四月六日
同 四月七日
同 四月八日
同 四月九日
同 四月十日
余瀬 四月十一日 翠桃方
同 四月十二日
同 四月十三日
同 四月十四日
同 四月十五日 松尾芭蕉 桃雪方
河合曾良 翠桃方
高久 四月十六日 高久覚左衛門方
同 四月十七日 
那須湯本 四月十八日 和泉屋五左衛門方
同 四月十九日

出典 「曾良日記」

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

まずは黒羽の余瀬から那須町の高久に行きます。
これは私の家のすぐ近所です。
昔から松尾芭蕉が訪れたということは地元では知らない人はおりません。
高久本郷の地は、江戸時代には黒羽藩領として高久組(現在の大字高久甲、乙,丙の地域)の支配下に置かれ、名主の管理するところでありました。
元禄二年(1689)新暦の6月3日に芭蕉と門人の曽良は旧黒羽町余瀬を出発し、名主覚左衛門方に泊りました。
翌日6月4日も雨のために留まり、6月5日那須に向かって松子を経て湯元にへ向かいます。
この記述から判断すると、天気は決してよくなかったのではないでしょうか?
那須山の記述が無いのが納得できます。

ページのトップへ戻る

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

那須湯本に2日滞在し、殺生石と那須温泉神社を参詣し湯本を午前8時頃出発して、遊行柳に着いたのは正午頃と言われています。
何時間ぐらい滞在したのかは、田を一枚植え終わったのですから、2時間ぐらいはいたのではないかと思います。
遊行柳は田園の田んぼに囲まれた場所です。
芭蕉が見た田植えの風景や、どの田の田植えを見たのかは、まあ想像するしかありません。
西行(さいぎょう)は、祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれながらも、深く人生を掘り下げてやがて漂白の詩人とよばれるようになった芸術です。
下る事500年前の、西行を偲びながら田植え風景を眺めていたのでしょう。

ページのトップへ戻る

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

この柳を見つめながら松尾芭蕉はどんな心象風景を見ていたのでしょうか、生涯独身を通し彼が目指したものが何だったのかぼんやりとみえてくるような気がしました。
314年後の芭蕉が訪れたこの日もどんよりした曇り空です。
松尾芭蕉、時に46歳。

松尾芭蕉は「おくのほそ道」の5年後に世を去りました。
人生50年といわれていた時代に、当時としては大変困難な旅にでたのである。
(松尾芭蕉 享年50)
命を賭ける覚悟で旅だったのは間違いないでしょう。
立松和平さんは「旅に捨て身する」と表現していました。
表面は奥の細道を旅していたのでしょうが、芭蕉は同時に心の旅もしていたのでしょう。
同じ日にこの場所に立って見た私なりの印象です。
結果的には全行程2400Km、160日におよぶ漂白の旅の大紀行になりました。
現在でいうと14都道府県、28市町村に足跡を残す旅をしたのです。
(東京都ー埼玉県ー栃木県ー福島県ー宮城県ー岩手県ー秋田県ー山形県ー新潟県ー富山県ー石川県ー福井県ー滋賀県ー岐阜県)
こんな感じですかね、違っていたらすみません、
生涯を賭けた大紀行に出る前に西行法師に敬意を表したかったのかもしれません、まあ、これも想像するしかありません。

ページのトップへ戻る

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

柳の葉と田の向こうに現在の奥州街道である国道294号線がみえます。
そして、遠くに見えるのが白河の関の方面です。
これからが、いよいよ本番です。
もちろん元禄の46歳といったら、私が55歳ですから、同じぐらいの感じだと思います。
果たして現代の55歳の人間が命を掛けて旅をすることができるでしょうか?
どれだけ旅に情熱を持っていたかわりますよね,
死に際しても、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る と詠んだ句に良く現れていると思います。

田一枚植えて立ち去る柳かな 松尾芭蕉 そして道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ  西行法師 遊行柳 田一枚植えて立ち去る柳かな 松尾芭蕉 そして道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ  西行法師 遊行柳

句碑です。田一枚植えて立ち去る柳かな 松尾芭蕉 そして道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ  西行法師。
この句碑は別々の物ではありません。
表側が松尾芭蕉の句で、裏側が西行法師の句が刻まれている、一枚の石です。
そこには彼らの魂が宿っているがごとくに感じました。
松尾芭蕉もあの世とやらがあるならば、西行を尊敬し西行のように生きたいと願った芭蕉が、西行法師と一枚の石の表裏に句が刻まれ、現在もこの地に残っていることは喜んでいる気がします。

ページのトップへ戻る

「おくの細道」か「奥の細道」か?

どうやら「おくの細道」というのが一般的には正式なようです。
下記参照。

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

もちろん314年前の芭蕉が見た空は分かりません。
多分どんよりとした曇り空だったのでしょう。
しかし心の中には雲間に青空が見えるような気持ちだったのではないでしょうか?
ボンクラな私などが頭を三角にして考えてもわかりませんが、同じ日にこの柳の下で当時を偲んだ私の印象です。
白河の関の方を見ると峠が見えます、松尾芭蕉も峠に向かって歩きだしたのでしょう。

「おくのほそ道」は江戸時代から現在にいたるまで沢山の人に愛読されております。

天保16年に出版された奥の細道

松尾芭蕉自筆のものは、1996年にその存在が初めて確認され、少ない部数ですが復刻版が世にだされました。
有名な西村本「於くの本曽道」の素龍本の復刻版 左 そして右側の小型本は、天保14年(1837)に出された当時のものです。

出版経緯については詳しくはウィキペディアなどを参考にしてみてください。
一応ウィキペディアから引用です。
西村本の題簽(外題)「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。この初版本は現在1冊しか確認されていないが、増し刷りされ広まったため版本は多く残る(本文に変化は見られない)。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は西村本を指す。 1938年に曾良本(そらほん)発見、1960年に柿衞本(かきもりほん)の存在が発表され、1996年に芭蕉の真筆である野坡本(やばほん)の発見とされた中尾本(なかおほん)の存在が発表されている。これによりこの本の原点を探る研究・出版も近年盛んになっている。

ページのトップへ戻る

那須へ向かう芭蕉の足跡

鹿子翠桃

「おくのほそ道」行脚の途次、芭蕉は黒羽の門弟鹿子桃雪(黒羽藩 城代家老 浄法寺図書高勝)を訪ね、余瀬に住む門弟の鹿子翠桃を訪れた。
黒羽の滞在は別の機会にしようと思っていますので、芭蕉が余瀬を足ってからの足跡です。(写真上 黒羽余瀬 鹿子翠桃邸跡 )

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

野を横に 馬ひきむけよ ほととぎす

芭蕉が元禄二年(1689年)三月(旧暦)奥の細道行に旅立ち、黒羽より高久に向かう道すがら四月十六日。
手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句です。
この句は、どのあたりでつくられたかは定かではありませんが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。」
馬の手綱を引くものが短冊を書いて下さい。
広い野を横切って時鳥が一声、鋭く鳴いてはるかに飛び去った。
馬子よ、あの声のする方角に馬の首を引き向けよ。
その昔おこなわれた那須のの狩りを想い起こし(私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか)という心情で詠んだものである。
句碑の建立は、文化5年(1808年)10月とある。

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

高久本郷にある芭蕉庵桃青君碑

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

来歴を記念して、芭蕉没後61年を経た宝暦4年(1754年)8月、覚左衛門の孫、青楓が嵩雲柱文と書で「芭蕉庵桃青君碑」を建てた。
その時に俳句を埋めたので、「杜鵑の墓」とも称される。この碑の左側面には「落ちくるやたかくの宿の郭公 風羅坊(芭蕉)」の句と曽良の「木の間をのそく短夜の雨」の句が刻まれている。

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

那須湯本の松尾芭蕉の宿泊地
元禄二年(1689年)新暦の6月5日高久の里より那須湯本へ向かい、湯元の吾左衛門方に2泊します。
新暦6月5日と6月6日。現在は芭蕉に関する建物などは残っておりません。
湯元の鹿の湯にほど近い場所であります。

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

「松のことは松に習え 竹のことは竹に習え」 松尾芭蕉

松尾芭蕉の言葉ですが、私意を離れ先入観を捨て、自己と対象とが一体とならなければ真の詩は生まれないということです。

遊行柳の下にある芭蕉と西行の句碑。
表が芭蕉で裏が西行である。

ぼんやりとマリア・カラスを聞きながら田んぼを見つめていました。
漠然とした不安をまだ、芭蕉はこの地では持っていた気がします。

堺屋太一さんの、峠の群像を読むと元禄という時代がよくわかります。
時の将軍は第五代徳川綱吉。
日本が最初にバブルを経験した時代だといいます。
尾形光琳、野々村仁清、近松門左衛門、井原西鶴などすべて元禄時代の人です。
すべてが華美であり、また生類憐れみの令や赤穂浪士の討ち入りの大事件があったり、赤穂浪士の討ち入りなどはまさに武士道の峠だったような気がします。
元禄時代というのは特別な時期だったようです。
そんな江戸元禄時代、まさに峠にたった人々の群像が描かれています。
俳人松尾芭蕉もまた、峠の群像の一人だったのです。
何か現代と相通ずるものがあります。
1980年代から1990年代にかけての、物凄い好景気を経験した人も沢山いらしゃるでしょう。
空前の人手不足で公務員のなりてがいなかったんですからね。
あの峠を下って日本も久しいですね。

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

それでは、いよいよ旅立ちです。

314年前の松尾芭蕉を偲んでみました 遊行柳

inserted by FC2 system inserted by FC2 system inserted by FC2 system