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- 314年前の同じ日の同じ時間の2013年6月7日の遊行柳です。
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芦野 遊行柳 | 芦野 遊行柳 |
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松尾芭蕉が見た空
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす
古人も多く旅に死せるあり
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず
海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
3月27日 明け方、採荼庵(さいとあん)より舟に乗って出立し、千住で船を下りて詠む。
矢立の初め
行く春や 鳥啼(なき)魚の目は泪
写真は与謝野蕪村の挿絵が付いたおくのほそ道です。
言わずと知れた俳聖・松尾芭蕉が残した不滅の名作です。
松尾芭蕉は元禄二年(1689)陽暦で6月7日に那須の温泉神社と殺生石を見てから、ここ芦野の遊行柳を314年前の今日訪れています。
黒羽と那須での芭蕉の宿泊日及び宿泊地
黒羽 | 四月四日 浄法寺桃雪方 同 四月五日 同 四月六日 同 四月七日 同 四月八日 同 四月九日 同 四月十日 余瀬 四月十一日 翠桃方 同 四月十二日 同 四月十三日 同 四月十四日 同 四月十五日 松尾芭蕉 桃雪方 河合曾良 翠桃方 |
高久 | 四月十六日 高久覚左衛門方 同 四月十七日 |
那須湯本 |
四月十八日 和泉屋五左衛門方 同 四月十九日 |
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出典 「曾良日記」
まずは黒羽の余瀬から那須町の高久に行きます。
これは私の家のすぐ近所です。
昔から松尾芭蕉が訪れたということは地元では知らない人はおりません。
高久本郷の地は、江戸時代には黒羽藩領として高久組(現在の大字高久甲、乙,丙の地域)の支配下に置かれ、名主の管理するところでありました。
元禄二年(1689)新暦の6月3日に芭蕉と門人の曽良は旧黒羽町余瀬を出発し、名主覚左衛門方に泊りました。
翌日6月4日も雨のために留まり、6月5日那須に向かって松子を経て湯元にへ向かいます。
この記述から判断すると、天気は決してよくなかったのではないでしょうか?
那須山の記述が無いのが納得できます。
那須湯本に2日滞在し、殺生石と那須温泉神社を参詣し湯本を午前8時頃出発して、遊行柳に着いたのは正午頃と言われています。
何時間ぐらい滞在したのかは、田を一枚植え終わったのですから、2時間ぐらいはいたのではないかと思います。
遊行柳は田園の田んぼに囲まれた場所です。
芭蕉が見た田植えの風景や、どの田の田植えを見たのかは、まあ想像するしかありません。
西行(さいぎょう)は、祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれながらも、深く人生を掘り下げてやがて漂白の詩人とよばれるようになった芸術です。
下る事500年前の、西行を偲びながら田植え風景を眺めていたのでしょう。
この柳を見つめながら松尾芭蕉はどんな心象風景を見ていたのでしょうか、生涯独身を通し彼が目指したものが何だったのかぼんやりとみえてくるような気がしました。
314年後の芭蕉が訪れたこの日もどんよりした曇り空です。
松尾芭蕉、時に46歳。
松尾芭蕉は「おくのほそ道」の5年後に世を去りました。
人生50年といわれていた時代に、当時としては大変困難な旅にでたのである。
(松尾芭蕉 享年50)
命を賭ける覚悟で旅だったのは間違いないでしょう。
立松和平さんは「旅に捨て身する」と表現していました。
表面は奥の細道を旅していたのでしょうが、芭蕉は同時に心の旅もしていたのでしょう。
同じ日にこの場所に立って見た私なりの印象です。
結果的には全行程2400Km、160日におよぶ漂白の旅の大紀行になりました。
現在でいうと14都道府県、28市町村に足跡を残す旅をしたのです。
(東京都ー埼玉県ー栃木県ー福島県ー宮城県ー岩手県ー秋田県ー山形県ー新潟県ー富山県ー石川県ー福井県ー滋賀県ー岐阜県)
こんな感じですかね、違っていたらすみません、
生涯を賭けた大紀行に出る前に西行法師に敬意を表したかったのかもしれません、まあ、これも想像するしかありません。 柳の葉と田の向こうに現在の奥州街道である国道294号線がみえます。
そして、遠くに見えるのが白河の関の方面です。
これからが、いよいよ本番です。
もちろん元禄の46歳といったら、私が55歳ですから、同じぐらいの感じだと思います。
果たして現代の55歳の人間が命を掛けて旅をすることができるでしょうか?
どれだけ旅に情熱を持っていたかわりますよね,
死に際しても、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る と詠んだ句に良く現れていると思います。
句碑です。田一枚植えて立ち去る柳かな 松尾芭蕉 そして道のべに清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ 西行法師。
この句碑は別々の物ではありません。
表側が松尾芭蕉の句で、裏側が西行法師の句が刻まれている、一枚の石です。
そこには彼らの魂が宿っているがごとくに感じました。
松尾芭蕉もあの世とやらがあるならば、西行を尊敬し西行のように生きたいと願った芭蕉が、西行法師と一枚の石の表裏に句が刻まれ、現在もこの地に残っていることは喜んでいる気がします。
「おくの細道」か「奥の細道」か?
どうやら「おくの細道」というのが一般的には正式なようです。下記参照。
もちろん314年前の芭蕉が見た空は分かりません。
多分どんよりとした曇り空だったのでしょう。
しかし心の中には雲間に青空が見えるような気持ちだったのではないでしょうか?
ボンクラな私などが頭を三角にして考えてもわかりませんが、同じ日にこの柳の下で当時を偲んだ私の印象です。
白河の関の方を見ると峠が見えます、松尾芭蕉も峠に向かって歩きだしたのでしょう。
「おくのほそ道」は江戸時代から現在にいたるまで沢山の人に愛読されております。
松尾芭蕉自筆のものは、1996年にその存在が初めて確認され、少ない部数ですが復刻版が世にだされました。
有名な西村本「於くの本曽道」の素龍本の復刻版 左 そして右側の小型本は、天保14年(1837)に出された当時のものです。
出版経緯については詳しくはウィキペディアなどを参考にしてみてください。
一応ウィキペディアから引用です。
西村本の題簽(外題)「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。この初版本は現在1冊しか確認されていないが、増し刷りされ広まったため版本は多く残る(本文に変化は見られない)。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は西村本を指す。 1938年に曾良本(そらほん)発見、1960年に柿衞本(かきもりほん)の存在が発表され、1996年に芭蕉の真筆である野坡本(やばほん)の発見とされた中尾本(なかおほん)の存在が発表されている。これによりこの本の原点を探る研究・出版も近年盛んになっている。