白河口の戦い
白河は奥州街道を守る重要な拠点として、代々初代の丹羽氏を除いては有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった藩です。
徳川家から信頼された者ではなくては任せられない要衝地です。
江戸時代初期から奥羽地方の外様大名、まあ、現在の仮想敵国の江戸攻撃から福島県の最終ラインを守る重要な役割を担う運命にあったと言っていいと思います。
戊辰戦争ではそれが、想定外と言える西から攻められ、又白河藩の藩主・老中阿部正外が混迷を深める連合艦隊との交渉に当たり、強行に開港を要求していた兵庫を天皇の勅許なく開港した責任で江戸幕府老中を罷免となり、白河城は空き城となっていました。
維新後に立った会津藩の慰霊塔です。
新政府軍に、文字数まで制限されたそうです。
仙台藩が奥羽列藩同盟の姿勢を公然と顕にして、総督府の世良修蔵を殺害、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを仙台城下に軟禁した同日の4月20日、二本松藩兵が守備していた白河城へ会津藩と仙台藩が侵攻奪還します。
それを契機に会津藩と新選組(土方歳三が負傷により戦列を離れていたため斎藤一が指揮、尚新選組一番隊組長及び撃剣師範であった沖田総司は白河藩藩士・沖田勝次郎とミキの長男でありました。
1868年6月10日の「白河口の戦い」の時点では労咳により戦線を離脱しており、大変無念であったと思います。
沖田総司は約一ヶ月後の1868年7月19日に、労咳(結核)によりこの世を去りました。)
奥羽列藩同盟などと、新政府参謀伊地知正治との壮絶な大戦争が白河で勃発しました。
写真は新選組副長、土方歳三 明治2年5月11日、箱館五稜郭防衛戦にて戦死。享年35。
総大将徳川慶喜が恭順し事実上降参、4月11日江戸城が無血開城した時点でこの白河は新政府の管理下となってしまいました。
維新のターゲットにされた会津に向かって官軍は攻め込んできます。
特に尊王攘夷派の旗頭であった長州藩は、京都守護職であった会津は仇以外の何者でも無かったと思います。
会津藩の恭順などは絶対認めません。
5月1日、伊地知正治率いる新政府軍約500人は、列藩同盟軍から白河城を再奪還するための戦闘がおこなわれました。
ここは大激戦地となった稲荷山です。
5月1日未明早朝、戦闘が開始されます。
白河口の攻防戦は、早朝から正午過ぎまでおよんだ七時間余りの激しい戦闘です。
しかし、東軍の戦死者六百八十二名に対し、西軍の死者はわずかに十二名で、文字通り東軍の記録的大敗に終わったのです。
戦争においての最大の死傷者を出したのは勿論太平洋戦争ですが、一日の死傷者と考えた場合、たぶん関ヶ原の戦いでも死者は1000人台と思われますから、ここでどれだけ激しい戦闘がが行われたかは想像に難くありません。
こうして白河城は落城し新政府軍の手中に落ちていきました。
奥羽列藩同盟軍は圧倒的な軍備にもかかわらず、近代戦闘の政府軍に惨敗して100日間の間に1000人の戦死者を出しています。
白河小峰城の落城によって、白河口は政府軍の後方基地となり、列藩同盟は分断され会津藩は孤立状態となります。
そして会津総攻撃と雪崩れ込んで行きます。
それが鳥羽・伏見の戦いで、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍とし幼い皇太子を擁して、錦旗を掲げ薩長軍は官軍とされました。
浅田次郎氏原作の映画「壬生義士伝」の中で中井貴一扮する吉村貫一郎が言ったセリフに、新選組の気持ちが代弁されている気がします。
一天万乗の天皇様に弓引く気はもちろん新選組にもありません。
新選組にしてみれば、徳川の恩の為に戦はしなくては私の義がたちません、というような内容です。
また、孝明天皇より絶対的信頼を得ていた松平容保の会津藩は、新政府軍より完全なスケープゴートにされてしまいます。
新政府軍は徹底的に会津を追い詰めます、
沢山の藩が命惜しさに官軍に寝返る中、薩長こそ国賊であり、亡くなった孝明天皇や逃げ出した慶喜の徳川家に対しても、最後まで忠誠を誓った会津は徹底抗戦します。
「義に死すとも不義に生きず」という会津藩は、新選組や旧幕府軍の一部と共に戦いながら、白河まで攻められ会津に肉薄されてきます。
そしてこの白河口の戦いで7時間の間に700名の人間が死にました。
多分松並や稲荷山は血だらけだったと思います。
不名誉な賊軍の汚名を着せられながら死んでいった人達の事を考えると、うちのひいじちゃんなどは涙を流していました。
そんな記憶が幼い頃の思い出にあります。
白河口の戦いで使用された新政府軍の機関砲が小峰城に展示されておりました。
イギリス製のアームストロング砲(写真 下)
戦いの趨勢が決したという点で、アメリカの南北戦争においてのゲティスバーグの戦いに近いものがあったと個人的には思っています。
ゲティスバーグは アメリカ合衆国ペンシルヴァニア州の南部に位置する町で南北戦争に於いての要衝地でありました。
時期的にも戊辰戦争が 西暦1868年 - 1869年で、南北戦争が 西暦1861年 - 1865年とほとんど同時代に海をはさんで起こった内戦です。
日本の戊辰戦争はいうなれば封建制度の中の武士階級の戦いです。
武士以外の人々を顧りみず、沢山の民間人に迷惑をかけたのも否定しがたい事実だと思います。
もちろんアメリカには封建制度などはありませんでしたが、アメリカには奴隷制度というのがありました。
これは南北戦争の原因の主たる要因です。奴隷解放を主張する北軍と奴隷制存続を主張する南軍との内戦です。
まあ、私の先祖は白河出身ですから、もちろん私見で会津側から見ていますので、どうしても判官贔屓は避けられませんが、単に戦争論として考えれば薩長を主体とする新政府軍の戦略が優れていたのに尽きます。
これは戊辰戦争に詳しいサイトなどを是非参考にしてください。
東軍は武器だけではなく、戦争で最重要なインテリジェンス面でもはるかに劣っていました。
いくら名刀を持っていても近接戦以外では遠方から雨あられのように銃弾を打てる機関銃の前には歯が立ちません。
この辺を考えても戦術、戦略とも新政府軍のやり口のうまさがわかります。
国やぶれて山河あり 城春にして草木深し
稲荷山は小高い丘です。今では小さな公園もあり、ジャングルジムやすべり台があり、そんな悲惨な事がおこったとは到底思えない静かな場所です。
戊辰戦争が終わり日本は明治という新しい時代を作りましたが、その後の歴史は皆さんもよくご存知の事ですね。
彼らに本当に日本の将来のビジョンがあって、その理想の国を造る為の戦いだったのでしょうか?
ボンクラな私などには分かりませんが。
アメリカのリンカーン大統領演説はアメリカ合衆国が拠って立つ自由と平等の原則を見事に表現しています。
そして米国の生存のために戦い、命を落とした人々の栄誉を誇らかに称えています。
時代は流れ明治時代中期以降、那須野ヶ原は薩摩藩や長州藩、大垣藩出身の方々のヨーロッパを手本にした大農場などが沢山できました。
官軍によるぶんどり合戦と言っても過言ではないと思います。
現在では当時の農場はほとんど残っておりませんが、千本松牧場などは当時の面影を残し、今でも広大な面積を保持しております。