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昭和天皇がこよなく愛した赤松林
とちぎの景勝100選に選ばれています那須高原の入り口に長さ約3Kmにおよぶ、全国でも貴重な赤松林です。
道路と一体に管理された栃木県内唯一の国有保安林であり、那須街道沿いは日光国立に指定されています。
桜に百年の樹少なく 松に千年の緑多し
雨森芳洲
東北新幹線が開業するまで昭和天皇と皇后さまは、特別なお召し列車でJR黒磯駅までお越しになり、黒磯駅から那須御用邸に向かわれました。
海が無いのに何故黒磯というのかは、11世紀の永保年間「黒館五郎」と「磯勝光」なるものが土着して開いたという説と、那珂川の磯が黒いので黒磯と名付けたと2説があるようです。
昭和天皇は、毎年7月下旬から9月上旬まで栃木県にある那須の御用邸で静養するのが恒例であり、終戦記念日の8月15日だけ、東京都内で執り行われる全国戦没者追悼式へのご出席のために一時帰京いたしました。
静養中は植物研究に没頭していたそうです。
昭和天皇が大好きだったという晩翠橋からの那珂川と那須連山の眺め、右側の森林が那須街道の赤松林です。
昭和天皇が通行なされるルートは、1時間ぐらい前から厳重な交通規制が敷かれ、一般車両は通行禁止になりました。
街中の住民は総出で沿道に立ち、私の子供の頃は日の丸の旗を振りました。
私も何度も拝見した経験があります。
天皇御一行は白バイを先頭に長蛇の隊列を組んで、最後尾には多分爆弾処理班までいたと思います。
晩翠橋
那須塩原市及び那須町の現在の那珂川は、大雨でも降らないかぎりとても大河とはいえない状態ですが、深山ダム建設以前の那珂川は大きな大河で、当時は夏休みになると川を堰き止めて自然のプールとなり、水深も深い所では4mを超える淵があったりしました。
天然の鮎や天然のうなぎを始め、カジカや沢山の淡水魚が泳いでいて、現在の那珂川町の水遊園そのものでした。
現在でも那珂川は日本釣振興会の統計では、鮎の天然遡上が最も高い川だそうです。
下の写真は昭和40年の中頃「晩翠橋」の上から撮影したものです。
「晩翠」とは冬枯れのとき、なを草木が緑色であること」をいう
那珂川の岸に茂る松の緑にちなんで名付けられた。
「北関東川紀行1 栗村 芳実 東 敏雄著より引用
現在でも那珂川は、天然鮎の漁獲高が日本一の川です。
深山ダムの建設や那須疎水による、上流域での水流の激減により、今はもう当時の面影は無くなってしまいました。
昭和が遠くなりましたね。
黒磯市と那須町の境には、日本の近代土木遺産にも登録された晩翠橋を渡って那須街道を左折します。
現在の「晩翠橋」は昭和7年に建造されました。
戦前は天皇陛下は現人神であられた訳ですから、「神様が渡られる」ということでと個人的には思っておりますが、非常に凝った美しいクラッシクスタイルな橋です。
那珂川に架かる橋では一番美しいのは間違いありませんし、映画「マディソン郡の橋」のナショナル・ジオグラフィックのカメラマン ロバート・キンケイド(役クリント・イーストウッド)が仮に那須にいたとしたら、必ず撮影すると思います。
「那須郡の橋」ですかね。
残念な事にオリジナルの色(多分薄い萌黄色)が訳のわからない白になってしまいました。
上記の晩翠橋の名前の由来を読めば何故萌黄色にしたかわると思うのですが。
オリジナルを大事にしないのは個人的には非常に残念です。
パリのエッフェル塔が白になったらフランス国民は果たしてなんというでしょうか?
那須街道に入るとすぐに昭和天皇がこよなく愛した赤松の林が始まります。
私達子供にとっては近所でもあり遊びの森であり、また神聖な森でした。。
夏休みになるとオニムシ(クワガタの事です。)を採りに夜が明ければすぐに行ったものです。
当時の赤松の林は現在の林と違い深い森でしたが、宅地や別荘地になったり、遊歩道ができたりで森も変わりました。
以前は漆なども沢山ありましたが、現在は多分私が見たところ一本もありませんでしたね。
子供の頃は、夏休み中一度は必ず漆にかぶれて、イタイ思いというかカユイ思いをいたしました。
赤松林のオオタカ(大鷹) Accipiter gentilis
赤松林は広葉樹も混在し、野鳥の棲み家としても知られています。
栃木県の鳥獣保護区に指定されています。
最近、この近所の那須高原ビールの前で2度ほどオオタカを見かけました。
鷹は風格のある気高い鳥ですよ。
まだ私の子供の頃近所でオオタカを飼っていた人がいて良く見にいきました。
餌は生き餌しかたべません。非常にプライドの高い鳥です。
昔は鷹などそんなに珍しい鳥でもなっかたのですがね。
この近辺では良く見かけます。
2013年の7月に那須高原ビールの近くで撮影したオオタカです。
タカも保護されているのがわかっているのか、最近は人間の住んでいる地域でもよく見かけます。
しかしアカマツ林を開発すれば餌が少なくなってしまいますので、オオタカも引越しをせざるを得ないのではないでしょうかね。
田舎の人間は歩くようで都会の人間に比べたら比較にならないぐらい歩きません。
100m先のコンビニでも車で行く人がほとんどです。
以前は最低20分動かないと脂肪が燃えないというのはデマだそうで科学的根拠はないそうです。
とにかく5分ぐらいの運動をこまめにするほうが燃焼効率はとても良いそうです。(2015年 井上茂 東京医科大学 公衆衛生学分野教授)
脳トレなどもまったく科学的根拠がないそうですから、「あまり流行に左右されない」というのも大事なことです。
北関東・南東北豪雨災害(那須水害)について
もうひとつは本州を貫くような山脈が分水嶺となり日本海や太平洋に注ぐ方向が決まるように、那須連山の周辺に那珂川(太平洋)阿武隈川(太平洋)阿賀野川・大川(日本海)というような大きな川が那須周辺を分水嶺としています。ここに1998年(平成10年)8月26日から31日、1時間雨量が90mm、総雨量が1254mmという驚異的な豪雨が襲いました。
これは年間雨量の約3分の2にあたる雨量であり、たった4〜5日の間にそれが降ってくるのである。
私は8月26日友人が管理人をやっていた那須湯本のさる大会社の保養所に遊びに行っておりました。
自分の手作りと称する、黒磯の昭和食品で売っている胡麻豆腐がバレバレなのを食わされておりました。
夜7時か8時頃インチキ手作り料理にも飽きて、そろそろ帰ろうと思っておりましたが、友人が帰るところの騒ぎじゃねえぞ!
表をみてみろや!今までみたこともない雨が降ってるぞ。
インチキかと思って表に出てみると、本当にもうこの世の終わりのような光景です。
すさまじい雷鳴と稲光、怒涛のごとく落ちてくる、もはや雨などというものではなく、狂ったような水の塊です。
そんなんで一晩中備え付けの防災無線の前で推移を見守っておりましたので状況は良く分かっております。
後に危機管理であるとか非難した人達も沢山いましたが、私自身はあのときの状況を誰も責めることはできないと思います。
誰も経験しなかった災害の前に人は無力です。
防災無線の中でやり取りをされる誰も指揮官がいない状態、誰も全体像を把握できない状況、那珂川の水位が分単位で驚異的に増えていく中、那須疎水を放流するかどうか、悲痛な叫びに誰も許可を下せない状況。
ドンドン入ってくる救助の依頼に数台の車両しかないこと。
私も軍事機関に長くいましたので、指揮系統がない部隊が戦えないのは常識ですから、これは大変な事態になるなという予感は的中してしまいました。
インターネットなど全然普及していませんでしたから、いかにネットの歴史など浅いかも良くわかります。
那須に限らず地方などというのは日本中あまり大差ないもので、どこでも大して優秀な人間もでない変わりにバカも少ないという横並びの世界です。
役場や市役所などの公務員にでもなれれば、地方では一生食いっぱぐれのないような世間ですからなにより優先されるのは地縁、血縁です。
誰かを攻めれば誰かの親戚であったりするわけで、裏はどうだかわかりませんが表面上は仲良し人形劇と大差ありません。
大手門は責めてみるフリはしますが搦め手はガラガラですから茶番です。
公式といわれるブログなどを読んでもらえば良くわかると思います。
自腹を切って食ってないものを「まずい!」などと言えるわけがありません。
地方でそんなことをしたら村八分です。
過去、実際に那須町の選挙にからむ選挙違反で芋づる式に大量の町議が辞任したり、マンガのような話が本当なのです。
そこに未曾有の危機が襲うのですから誰もせめようがありません。