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乃木希典那須野旧宅(のぎまれすけなすのきゅうたく)
乃木希典那須野旧宅. 県指定史跡
明治24年、現在の那須塩原市の石林に約14haの土地を求め、乃木自ら設計した農家風の別邸を建てました。
乃木希典は長府藩士の子供として生まれ、日露戦争の英雄とされています。
この農家風の質素な別邸で約5年程農業にいそむ生活をしました。
1966(昭和41)年県指定史跡。西那須野町(那須塩原市)石林の乃木神社境内にある。乃木希典(陸軍大将・伯爵)
休職中の多くを石林のこの別邸で過ごし、村人と親しく交際したようです。
軍人たるもの粗食であるべしとの信念を持つ乃木は、なにか「宮沢賢治」「雨ニモマケズ」の詩の一部にあるような晴耕雨読の生活を送ったようです。
現在、乃木希典那須野旧宅跡とその農事日記・夫妻の遣影・遺品等が保存されています。
納屋には、当時使用した農機具等が残されています。
長州萩出身でありながら、乃木は那須野ヶ原の大木の森がいたく気に入ったようで、生涯愛することとなります。
江戸時代までは大名以外が土地を所有することができませんでしたが、御一新で個人で土地の所有が認められる事となり、大規模な土地を所有することは、一つのステータスになりました。
明治時代、那須野ヶ原は、維新のパワーエリートである人々の大農園が展開されましたが、乃木はあまりそういうのは興味がなかったようです。
同じ長州出身の山県有朋の農園が矢板町にあります。 成り上がり者で、アクの強い、勲章フェチと陰口をたたかれた山縣有朋とは、正反対にいたと言っても過言ではないと思います。
大日本帝国陸軍の初代陸軍大将は西郷隆盛で、山縣有朋が第三代目、大山厳が第五代目で乃木希典が第十六代目になります。
この陸軍大将を務めた三人が那須野ヶ原に農場を開いたのも何か因縁めいたものがあります。
国道400号線沿いは開発が進み、昔の那須野ヶ原の面影は少なくなってきましたが、一歩中に入ると、まだまだ当時を偲ばせる森が残っています。
周辺は乃木公園となっています。
国道400号線から乃木神社へ続く参道が桜のトンネルになります。
参道には約100本ものソメイヨシノの桜並木が800mに渡って連なり、桜の季節には花見客で大変賑わいます。
境内を貫いて蟇沼用水(ひしぬまようすい)が流れをつくり、その一部は静子夫人の名を冠した「静沼」へと引かれています。
以下ウィキペディアからの引用です。
蟇沼用水(ひきぬまようすい)とは、栃木県北部の那須野が原扇状地を流れる用水路の一つ。那珂川水系箒川支流蛇尾川から取水し、那須塩原市を通過して大田原市に至る。その起源は江戸時代初期に遡り、那須野が原一帯においては記録に残る中で最も古い用水路とされる。
西那須野 乃木神社
乃木神社の鳥居をくぐるとすぐ横にある美しいしだれ桜、大正15年に植えられたそうです。乃木神社宝物館に乃木希典の遺品が展示されている。
乃木神社は、乃木希典が明治天皇の崩御により殉死したのちの1916(大正5)年に創建された。春・秋の例祭がそれぞれ4月13日・9月13日に行われる。
日露戦争はアジア進出を進める帝政ロシアと制海権を争った戦争で、大国ロシア帝国に日本が勝利しました。
(極東アジア進出の重要な拠点が旅順であり、ロシア帝国が編成した大規模なバルチック艦隊とに挟み込まれれば日本はひとたまりもありませんから、旅順を落とす事がどれだけ重要だったかわかると思います)
制海権を大国ロシアに奪われていれば現在の日本は無かったかもしれません。
乃木希典については、それこそ沢山の小説の題材になっています。
那須での生活を見ていますと、乃木の無骨で一本気な姿が見えるようです。
乃木神社宝物館に乃木希典の遺品が展示されている。